【印西市】宝珠院観音堂(光堂)と泉倉寺の化け猫伝説

宝珠院観音堂バイク(2輪もろもろ)
スポンサーリンク


前回は千葉県最古の木造建築物「栄福寺薬師堂」を訪れました。

その建立からおよそ100年後の永禄6年、薬師堂から少し離れた場所によく似たお堂が建てられました。
それが今回の目的地「宝珠院観音堂」です。

スポンサーリンク

国指定重要文化財 宝珠院観音堂

栄福寺の薬師堂と構造形式がよく似ていることで知られています。
場所は印西市小倉。栄福寺薬師堂から10kmほど離れた北西の森の中に建っています。

R464を走り、千葉ニュータウン中央駅のあたりから小倉地区へと北へ進む。

「小倉集会所 入口」と書かれた道標を過ぎてすぐ右手に泉倉寺というお寺があります。
小倉集会所 入口

泉倉寺社号標。現在はこのお寺が宝珠院観音堂を管理しています。
泉倉寺社号標

降りて行くと比較的広い駐車スペースがありましたのでそこに駐車。
駐車スペース

お寺の方は後ほど紹介するとして、まずは宝珠院観音堂を目指します。

さて前の道にもどり少し進みますと「宝珠院観音堂 入口」と書かれた小さな道しるべが立っています。
宝珠院観音堂 入口

指し示す方を向くと民家と民家の間に細い道が伸びています。進んでみましょう。
細い道

スポンサーリンク

細く続く道を進んで行くと・・・
細く続く道

茅葺き屋根が見えてきました。
堂宇

宝珠院観音堂です。
宝珠院観音堂

宝珠院は貞観年間(859年~877年)開基と伝えられる古刹ですが、現在はこの観音堂のみです。正面側面ともに三間の堂で、屋根は茅葺寄棟造です。正面には両開きの桟唐戸があり、周囲に切目縁をめぐらしています。柱はすべて円柱で、内部は後部2間が内陣、前部1間が外陣という構造になっています。栄福寺薬師堂と構造形式が似ています。この堂は、禅宗様式の影響を受け細部の造りは簡素化されていますが、内部の須弥壇、厨子、天井や壁上部の組物の一部にも美しい色彩装飾が施されていて、通称「光堂」と言われています。昭和28年から29年の解体修理によって、厨子内に永禄6年(1563)の墨書銘が発見され、厨子の制作時期が判明しました。堂の建立も構造的特徴から、ほぼ同時期と推定されます。

印西市HPより)

今から450年ほど前に建てられました。

スポンサーリンク

観音堂正面には角塔婆(柱)
角塔婆(柱)

また、手水舎もあり、
手水舎

その先は参道の階段になっています。
参道の階段

訪れた参拝客によるお線香
お線香

仏像なども置かれていました。
仏像

スポンサーリンク

観音堂正面に貼られた千社札
観音堂正面 千社札

茅葺き屋根の様子
茅葺き屋根

屋根の裏側
屋根の裏側

境内その他

大師堂
大師堂

観音堂背後の石祠
石祠

石仏群
石仏群

木々に囲まれたとても静かな場所でした。

スポンサーリンク

泉倉寺

さて「泉倉寺(せんぞうじ)」というお寺についても紹介しておきます。
泉倉寺

この泉倉寺というお寺は中本寺にして印西四十八ヵ村の本山という古刹です。観音堂を有していた宝珠院や、前記事の栄福寺もまた泉倉寺の末寺であったと伝わります。

大正2年に発行された『千葉県印旛郡誌』にある泉倉寺の項を見たら面白い話が載っていたのでちょっと紹介してみます。

泉倉寺 由緒

まずは由緒から。
※少し長いので小分けにして読んでみます。
(以下『千葉県印旛郡誌』内『永治村誌』より引用 半角スペースは読みやすいよう筆者追記 旧字は適宜変換)

和泉村字寺にあり 天台宗延暦寺派にして天龍山と號す延暦寺末なり 印西四十八ヵ村の本山にして権大僧都興賢を開基とす 平城天皇の勅願所にて七堂伽藍學校常念佛等ありしも天和三年正月元日炎上し舊記萬端焼失せり この以前は壮麗近郷に冠絶したりと伝ふ 往昔千葉氏の帰依すること厚し 而して當時の住職覚道千葉氏に勧めて北條氏を伐たんと謀る 策洩れて北條氏に聞す 其の年八月同族夜窃に兵を遣わし當寺を焼く 覚道遁れて比叡山に隠る 亂平きて再び當地に来り止る之を中興開山とす

泉倉寺は天台宗延暦寺の末寺で印西四十八ヵ村の本山でした。権大僧都(※僧侶の位)興賢により開山。平城天皇の勅願所(時の天皇・上皇の勅願により、鎮護国家・玉体安穏などを祈願する場所)であり、七堂伽藍その他を有する壮麗なお寺であったようです。(※七堂伽藍-寺院の堂宇のこと。塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵などをいう。)しかし天和三年(1683)元旦に起きた火事により、所蔵していた古い記録もろとも全てを焼失してしまいます。

ここでちょっと話はそれますが、
天和三年と言えば「八百屋お七」と呼ばれた少女が江戸で火刑に処された年です。

八百屋お七と痔の呪い 長妙寺へ
八百屋お七という少女をご存知でしょうか。 恋は盲目と申しますが、 いつの世もそれは変わらぬようでありまして、 恋い焦がれる乙女の目には想い人のほか何も見えなくなってしまうもののようです。 その昔江戸に広く知られた お...

当時から火事は大敵でした。恋に焦がれた少女の熱き想いは自らの身をも焦がすことと相成って・・・(興味があったら読んでみてください)

スポンサーリンク

閑話休題。話を戻して、

その昔この辺りを治めていた千葉氏の信仰厚く、それに乗じて当時の住職覚道は北条氏を討とうと謀略をめぐらします。が、あっさりとバレ、結果北条氏は兵を遣わして寺を焼いてしまいます。
覚道は比叡山へと逃げ隠れ難を逃れますが、落ち着いた頃にこの地へ戻り当寺を復興させました。

葬式に現れた化け猫の妖怪

(続き)同師深く家飼の大なる猫を愛す 一夜猫侍士と變化し謂て曰く 近時葬禮あり師願くは屍を我に與へよと言終りて形なし 果して檀家大森村に葬禮あり 其の日暴風雨天黒くして咫尺を辨ぜず(※) 雷雨轟々出棺するに槩て雷獣屍棺を奪はんと謀る 師棺を蔽い突鈷を以て獣手を打つ 突鈷折る獣爪落つ 此の二物當山の寶物となりしが今は舊埴生郡龍角寺に秘蔵すと云う

※咫尺を辨(弁)ぜず(しせきをべんぜず)-視界がきかず、ごく近い距離でも見分けがつかない様。

さてこの住職さん、大きな猫を飼っていて大変可愛がっていたようです。
ある夜猫は侍へと化けて住職に言います、
「近いうちに葬式が出る。願わくばその屍を私に与えてくれないだろうか。」
そう伝えるや否や姿を消してしまいます。
すると本当に隣りの大森村で葬式が出ます。その日は暴風雨で空は暗く、視界もきかぬような雷雨のなか出棺しようとすると、まさに雷獣が現れ棺を奪おうとするのです。住職は棺をかばいながら持っていた突鈷で雷獣の手を打ち払います。すると突鈷は折れましたが雷獣の爪を断ち落とすことができました。
この二つは当寺の宝物となりましたが、今は旧埴生郡の龍角寺(現印旛郡栄町)に秘蔵されていると言います。

・・・というか、実はこれって「火車(かしゃ)」と呼ばれる妖怪のお話だったりします。

火車/化車(かしゃ)は、悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪である。

概要
葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある。正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又が正体だともいう。

昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話がある。

火車から亡骸を守る方法として、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡、富士河口湖町)で火車が住むといわれる付近の寺では、葬式を2回に分けて行い、最初の葬式には棺桶に石を詰めておき、火車に亡骸を奪われるのを防ぐこともあったという。愛媛県八幡浜市では、棺の上に髪剃を置くと火車に亡骸を奪われずに済むという。宮崎県東臼杵郡西郷村(現・美郷町)では、出棺の前に「バクには食わせん」または「火車には食わせん」と2回唱えるという。岡山県阿哲郡熊谷村(現・新見市)では、妙八(和楽器)を叩くと火車を避けられるという。

考察
日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また中世日本の説話物語集『宇治拾遺物語』では、獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる。

(wikipedia 火車 (妖怪)より一部引用)

歴史あるお寺なのでいつの時代からか何かしらの縁で語られるようになったんでしょうね。
そして残念ながら龍角寺の方の情報にはこれらの宝物についての記述は見つけられませんでした。
人知れず倉庫の片隅なんかに置いてあったりしたら面白いのになぁ。

印旛沼龍伝説の地へ(龍角寺)
印旛沼周辺には、古来より伝えられる龍伝説があります。 その昔、印旛地方で日照りが続き村人は大変苦しんでいた。そこで聖武天皇の命により龍閣寺の釈命上人が印旛沼に船を漕ぎ出し沼の真ん中に出て、命がけで龍神様に雨乞いの祈祷をした。印旛沼...
スポンサーリンク

この後も文章は続くのですが、かいつまんで説明すると

嘉吉年中(1441-1444年)に江戸の東叡山寛永寺の僧侶・亮篤が来て本堂および庫裏(台所・居間)や四脚門などを再建、壮麗さの面影を取り戻したが、文久年間(1861年-1864年)に起きた火災によりわずかに庫裏一棟を残すのみとなり宝物などは全て焼失してしまいました。その翌年、信徒らにより仮本堂および門が建立される。境内には地蔵堂があり、建立年月は不詳ながら彦根候夫人(井伊家)の寄進によるもの、雨乞いの霊験あらたかなることをもって雨降地蔵と称した、とあります。
この「木造延命地蔵菩薩坐像」は千葉県の有形文化財に指定されています。

しかしながらここで出てくる江戸の「東叡山寛永寺」が上野にある東叡山寛永寺を指すならば、実は計算が合いません。
寛永寺の建立はその寺名の通り寛永年間(寛永二年、1625年)なのです。200年も時を遡って来れるはずもないので嘉吉ではなく嘉永(1848-1855年)あたりと間違えたのかな?

ま、細かいことはさておき、
平城天皇の治世、大同2年(807年)創建というから1200年以上もの歴史があることになります。もっとも何回か寺名が変わったり場所も変わっているので創建当時から残るものがあるわけではないようですが。

ちなみに現在は印西七福神の毘沙門天を置くお寺でもあります。
印西七福神の毘沙門天

まとめ

観音堂が森の中で長い時を積み重ねてきたことを思うと心揺さぶられる思いがします。
昔やっていた「仁」というドラマのOPにあったタイムラプスのイメージ?あのテーマソングが頭に流れる(笑

周辺にあった本堂や鐘楼、境内を行き交う僧侶や手を合わせる人々、そして突如猛火に包まれる堂宇、残された焼け跡、やがて周りには木々が育ち、ただ一つ残された観音堂を包み込んでいく・・・

それでも観音堂はちゃんと守られてきました。
もちろんこれからも心の拠り所として大事にされていくでしょう。合掌。

んでもって泉倉寺の方はあまり調べずに
「観音堂を管理しているお寺か。お、駐車場がある♪」くらいにしか認識していませんでした。(汗
まさかこれほどの古刹であったとは。
また改めて参りたいと思います。

さて、実を言うともう一つこれらに似た建築物が近くにあるのです。

栄福寺、泉倉寺(宝珠院)と来て今度は泉福寺薬師堂
次はそちらへ向かいます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました