【日本一小さい東照宮?】船橋東照宮へ 千葉ツーリング散歩

船橋東照宮へ バイク(2輪もろもろ)
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先日船橋の意富比神社(船橋大神宮)へ参拝した折、
その近くにある「日本一小さな東照宮」と言われる場所にも足を運んでみました。

東照宮と聞いてはじめに思い浮かぶのが日光東照宮。
絢爛豪華な彩色の社殿や門というイメージ。
修学旅行とかで行ったな〜。

そもそも船橋に、というか千葉県に東照宮があるの?
って思いましたがあるのです。びっくり。

その場所はJR船橋駅と意富比神社のちょうど中間点、
神社から歩いて6分ほどの距離にありました。

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東照宮

東照宮とは、言わずと知れた徳川家康公を奉斎する神社のこと。

徳川家康公は今際の際に金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を呼び、次のように遺言したと伝わります。

久能山に納め、御法会を江戸増上寺、靈牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ小堂を營造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし。

— 徳川実紀(台徳院殿御実紀四十二巻)

それを受け、

元和2年4月17日(1616年6月1日)、家康は駿府城で死去。柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府は同年12月(翌1617年1月)に久能山東照社を創建した。これに伴い、朝廷は翌元和3年2月21日(1617年3月28日)、神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位、さらに、神格化された家康本人に対しても同年3月9日(4月14日)正一位を贈位している。幕府は日光にも建設を進め、家康死去から1周忌にあたる同年4月17日(5月21日)に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立した。

しかしその後も各地の徳川・松平一門大名家、また3代将軍徳川家光による諸大名への造営の進言もあって譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた(廃絶されたものを含めると約700社が確認されている)。

1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、東照大権現は東照宮と称するようになった。
しかし明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。

これらの東照宮のうち本宮である日光東照宮、御遺体を祀る久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」とする東照宮は多い。仙波東照宮、鳳来山東照宮、滝山東照宮などが名乗っているようであるが、規模・華麗さで劣る京都金地院東照宮が幕府の正史に遺言が残り家康の遺髪及び持念佛を祀っている。

(Wikipedia 東照宮より引用)

多くの東照宮が建てられたようです。

そして日光東照宮に本部を置く「全国東照宮連合会」なる団体もあるようで、現在は47社が加盟しているそうです。
ちなみにそのリストを見つけたのですが、「船橋東照宮」は載っていませんでした。

その代わり匝瑳市八日市場にある「八日市場東照宮」の名が。
正直写真を見る限りこちらもそれほど大きくはないようなので、
船橋が”日本一小さい”のかはよくわかりませんが・・・
そちらも折を見て訪ねてみようと思います。

さてさて、前置きはこれくらいにして話を進めます。

船橋御殿跡と東照宮

場所はこちら。
船橋東照宮

意富比神社の西にある大神宮下交差点から駅の方へ。
川を超えたら道を一本北へ入り、住宅街に入ります。
道

この何気ない道を北へと曲がる。
入口の道

先へ進むと民家の間に鳥居が見えます。
民家の先に鳥居

到着
船橋東照宮

民家に囲まれてひっそり建っていました。

船橋御殿跡と東照宮(市指定文化財)

徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」または「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長十九年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)十一月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの1回だけであったが、秀忠はその後狩猟の度に立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永七年(1630)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛文末年頃(1670年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約404アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。

(船橋市教育委員会 現地看板より)

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もともとの広さは約404アール(約12,000坪)だそうです。
東京ドームが14,000坪強らしいので東京ドーム一個分より少し小さいくらい、でしょうか。

中に入ってみます。
東照宮と稲荷神社

稲荷神社と並んで建っています。

鳥居にはちゃんと東照宮の額。
そして社には葵の御紋。
鳥居と扁額

綺麗に手入れされた境内から地元の人たちに愛されているのがわかります。

三猿

さぁ皆様お待ちかねのアレです。
待ってない?さいですか。

三猿
見ざる言わざる聞かざる。

鳥居の足下に座っていました。
なんとも可愛らしいおさるさんでした。

まとめ

古くは権現様(ごんげんさま)と呼ばれていたそうで、
地元の方々は今も親しみを持って権現様と呼んでいらっしゃるそうです。(コメントを頂きました。伊藤吉之助様ありがとうございました。)

ちなみに駐車場はありません。
前のちょっとしたスペースにバイクなら短時間停められるかも。車は無理。

あるいは意富比神社に参拝し、その駐車場に置かせてもらったまま数分歩いて行くのが良いかも知れません。

奉納幕も新調されたそうです。
近くにお寄りの際は是非。
ということで今回は以上!

コメント

  1. 伊藤吉之助 より:

    お出まし、ありがとうございます。

    私は、“権現様=ごんげんさま”から歩いて1~2分のところで古くからの染物屋を営んでおります。

    『東照宮』と云う呼び方、呼称は、当地では近年の事でありま。

    当地に古くから住み、私たちの年代、、、昭和10年代、20年代生まれですが、、、この世代くらいまでは家康公に親しみを込めて『権現様…ゴンゲンサマ』と呼びます。

    私達は、いや私はでしょうか、東照宮と云うと、何か、他人行儀で違和感・?・を持つ者です。

    ともあれ、「日本一小さい」?か、どうかはともかく、ようこそお出ましくださいました、御礼申し上げます。

    安政元年創業と伝わる私ども業歴は165年ほどになります。
    創業以来、現在地で変わらず細々と営業しておりますが、所在地の字名は江戸時代「船橋宿九日村・御殿」でありました。

    江戸から成田山へ参詣の途次、“行にしべいか、帰りにしべいか”・・の『八兵衛宿・船橋宿』の御殿の染物屋=紺屋(こうや)で屋号は鶴屋。

    紺屋(こうや)の鶴屋。鶴屋の紺屋で『鶴屋の紺屋=つるやのこうや』が訛って「つるごうや」。

    ◆下総船橋・御殿の『鶴紺屋(つるごうや)』、“つるごやさん”、と、多くの皆さまから親しまれて参りました。

    先祖代々微力ながら権現様を崇敬。社殿奉納幕などを掲出。
    只今は御殿稲荷に新調の奉納幕はこのたびは赤地に『稲鶴』の紋を染め抜き、町内の中国料理店・東魁楼さんとともに奉納。

    東照宮の三つ葉葵、徳川葵御紋の白地大幕は令和2年3月、こちらは東魁楼さんと下総船橋・東照大権現の會とで奉納します。

    昭和の時代、船橋トライアルクラブでモーターサイクルグループ=FTC・MCG主宰者として、バイクでのご来船、権現様お立寄り、ホントにありがとうございます。重ねて深謝申し上げます。

    機会ありましたら、新しい奉納幕、ご覧下さい。益々お元気で!!!

    • watary watary より:

      貴重な情報ありがとうございました。
      是非また参拝させていただきます!

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